きみもリトルスター

星の数だけ吐き出したい気持ちがある @com_atcom

「気がついたらここまできていた」とは

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「がむしゃらに働いて、気づいたら周りには仲間がいた」

 

 

「 とにかく必死に頑張って、気づいたらこんな役職にまでなっていた」

 

 

「あっという間に時間が過ぎて、気がついたらプロと呼ばれるまでになった」

 

 

 

気づいたらここまできていた、という話し方は、実際わたしたちをモヤモヤさせる。

 

 

詳しく話していたらキリがないし、紆余曲折、波乱万丈、言い表せない時間があったのかもしれない。

言葉で伝えるにはあまりに長い。

 

 

 

でも聞きたいのはそういう概要なんかじゃなくて、その、"過程"なんだと思う。

 

 

 

気づいたら?

 

ほんとうに?

 

ほんとうにそこにたどり着くまで何も考えなかったの?

 

手っ取り早く説明しただけ?

 

 

 

 

生きている日々はそんなにも気づかないのか。

 

時間はほんとうに進むのが早いのか。

 

 

 

憧れのヒト、こうなりたいなぁと、この人はどんな人生を送ってきたんだろう、と興味を持つなんて、そういう現象、羨ましい。

 

 

 

 

「気づいたらここまできていた」という表現は使い勝手がいい。

誰のせいでもなく、自分もよくわからないと謙遜しながらでも歩いてきた道の長さを感じさせる。

魔法の言葉だ。

 

 

 

 

だから、わたしなんかが言うことではないかもしれないけれど、どうか使い勝手の悪い言葉で、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

定期的に逃亡しています

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街が見たくて福岡に逃亡した。

 

 

逃亡期間は1日だけで、しかも日帰りで帰ってきたというのは話した方がいいだろうか。

 

 

 

 

 

中高生は好きなブランドの店員さんと話せてとても嬉しそうにしていたし、前を歩くカップルはきちんと手をつないでいた。

 

 

外国人のスラリとした男性はCafe309でベトナム珈琲を頼んでいたし、頼まれた女性は顔を赤らめて額に汗をにじませながらレジを打っていた。

 

 

綺麗な着物をきた女性2人組は堂々とした佇まいで買い物をし、店員さんはいつまでもお辞儀をしていた。

 

 

若者がストリートライブの準備をしていた。それを面白そうに周りは見ていた。数分後、若者の周りにはたくさんの人が集まっていた。

 

 

 

学生募金のボランティアがあふれていた。右にいれば左を通り、左にいれば右を通る。どちらにもいれば、真ん中を通っていた。

 

 

 

 

 彼や彼女はこうしてこの街で生活をして、1日を過ごして家に帰って行く。

 

キラキラとした笑顔で話している姿とは違う、悲しい顔もするんだろう。

 

 

 

バラエティ番組で、とある女優さんが「街の明かりを見て泣いてしまったことがある。あの1つ1つに家族があって、生活していると思うと涙が出た。」と言っていた。

 

番組では「何言ってるんですか」と笑いが起こっていた。

 

 

こうして今すれ違う人たちは、どんな人生を過ごしていて、どんなことを考えているんだろう。

 

 

この街で、どんな時間を過ごしているんだろう。

 

 

誰も自分に話かけてくれない、知り合いにも会わない環境に身を置き、人を想った。

 

 

 

 

 

【本の話】ガソリン生活

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「死神の精度」を読んだ時の衝撃は半端じゃなかった。

 

みるみるうちにのめり込んでいくあの感覚は、小学校の頃以来だったと思う。

 

 

現実の世界に、ファンタジーだと思えないようなファンタジーが潜んでいて、「伊坂幸太郎」という作家が急にわたしの人生の〈文学〉部門に飛び込んで来た感覚だった。

 

 

 

そして、このガソリン生活は、読みながら「参ったなぁ」という気持ちばかり溢れてしまった。

 

うわ〜この書き方すきだな〜とか、登場人物がゴチャゴチャ出てこないのも、よい。

 

 

 

 物語は終始緑のデミオ、車の視点で描かれる。

あらすじを引用してこようと思ったがわたしの陳腐な言葉で説明するよりも、読んだ方が早いと思う。

 

 

 

 

車がなにか考えたら、車が心を持っていたらと考えることはよくあった。

 

 

だけど、ここまでわかりやすく、設定の細かい作り方ができるかな。

 

「ワイパーが動くだろ?」

 

なんて車的な素敵な言い回しをつけたり、四輪車と二輪車では会話ができなかったり、列車やタクシーなど車の中でも優位があったり、

 

おっもしろいなあ、と思った。

 

 

 

ミステリーでいて、ほっこりする魅力いっぱいの作品。

 

 

 

 

作品の帯にはこんなことが書かれている。

 

「幸福感の結晶たる、チャーミングな家族小説」

 

 

ま!さ!に!

 

 

という感じでわたしてきにはこの帯を書いた方のことも是非知りたい。

 

 

文庫本も出ているようだし、そちらの初版には書き下ろし小説もあるというんだから、もっと早くに知りたかったというほかない。

 

 

 

 

 

自分の読んだ本を誰かに伝えるのは正直恥ずかしい。

「まだ読んでなかったのかよ」

って。

「全然あいつわかってねぇな」

って。

 

 

わたしより、たくさんの本を読んでいるあの人やあの人に、がっかりされそうで。

 

 

でも、わたしはまだ前に進むわけで、

小説でいえばプロローグで、

だから怖じけずどんどん出していこうと思っている。

 

 

そんなはなし。

スーパー 光の帝国と化す

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わたしには大好きなスーパーがあります。

 

実家から、歩いて10分ぐらいのところにある、ごくごく普通のスーパーマーケット。

 

 

大抵のものはここで揃うし、価格も他と比べて高いことはない。

 

 

ここでも買うし、他所でも買うわよと言われるくらい平凡なところ。

 

 

 

でも、わたしにはここに通う理由がある。

 

 

 

周りにもたくさんのスーパーがあるし、最近できるのは天井も高くて駐車場も広いところ。

 

中に入ると、それは、とてもキラキラしている。

 

真っ白な、ちょっと上品そうなフロアに、真っ白い光があちらこちらで輝く、あかあかとした店内。

 

陳列はとてもきれいで、従業員もよく教育されている。

 

レジは2人体制で、お会計のあとは買い物袋に詰める台までカゴを運んでくれる。

 

 

真っ白な光で包まれた、明るい、そんなお店。

 

 

リニューアルしましたよ!

開店しましたよ!

 

 

という新鮮味を存分に味わわせてくれる。

 

 

 

 

ただ、わたしにとっては、そのあかあかとした世界が、とても入りにくい別の空間のように感じるのだ。

 

 

子供を連れた若い夫婦が買い物をしていたり、きっちりとメイクをしたご婦人や、スーツをきたサラリーマン。

 

 

彼女や彼らは、こうみえて、すごく周りをみている。

あの人は何を買った、この人はさっきあのコーナーにもいたな、

 

服装や、髪型、メイクもしっかり見ている。

 

 

 

いや、見られているような気がするのだ。

 

 

 

明るすぎる店内で、わたしはどこにも隠れられない不安を抱くのだ。

買いたいものを、躊躇してしまう、そんなことをしてしまうのだ。

 

 

 

 

 

わたしの大好きなスーパーは、つまるところ、そういう息苦しさがないところが好きだった。

 

 

使い古された蛍光灯は店内をそれなりに照らしていて、わたしはいつもよれよれの仕事着で入店する。

 

店内には同じように仕事着の方がウロウロしているし、近所のおばちゃん、と言えるような人もたくさんくる。

 

 

わたしが何をカゴに入れても彼らは見向きもしないし、さっさとどこかに向かっていってしまう。

 

レジの店員さんはわたしがいくら冷凍食品を買おうがカゴいっぱいにカップラーメンを入れていようが黙々とレジを打つ。

 

 

 

わたしはこの店の、そういう微妙な淡白加減が妙に心地いいのだった。

 

お店や開業をしていないわたしでさえ、近頃の「サービス祭り」にはうんざりしていたのかもしれない。

 

 

 

 

最近、このスーパーの近くに大型スーパーができた。

 

スーパーの入り口ではいつも大混乱が起こっているし、警備員もたくさん立っている。本当に今、大繁盛中のお店だ。

 

 

けれどそんなこともおかまいなし。

何かを変えるでもなく、大々的にチラシをうつわけでもなく、通常営業を続けている。

 

そういうところも、グッとくる。

 

 

 

お客さんのためや、時代の流れに乗ることはとても大事なことだし、マイペースが自分勝手に変換されるような行動はしてはだめだし、限られた範囲でぐるぐる動かなければいけないけれど、

 

そういう、みんなが好みそうだ、

 

を、

 

好まないひともいるということを

個性を大事に!な今の時代では忘れてはいけないこと。

 

 

 

 

 

 

そんなことを、平凡なスーパーで思ったのだった。

道の真ん中でステップ

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ほんの少しのお酒と、申し訳程度のおつまみを一口つまんで、外に出た。

 

 

ついさっきまでスピードをあげた車が行き交う道路には、街灯がポツポツとあるだけ。

 

 

空は真っ暗で星も見えない。

 

 

自転車の練習をしていたあの子も、ブランコを譲ってもらったあの子もいない公園を横切って、そして、一歩踏み出す。

 

 

 

桜並木の真ん中に立つわたしはとても自由だ。

 

 

 

 

人の気配のしないこの道では、どちらが前で、後ろかもわからない。

 

どちらがどうだと、考えることもない。

 

どちらにいってもいい。

 

 

見えない誰かに手を振ってもいいし、寝転んでも、リズムを刻んでもいい。

 

 

家に帰ってもいいし、このまま歩いてみてもいい。

 

 

手拍子を鳴らしながら、習ったこともない自分勝手なダンスで踊る。

 

 

 

風が吹く。

 

 

 

わたしは、ここにいるぞ。

 

 

 

さあちゃんという女性

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さあちゃんはずっと結婚しなかった。

 

 

 

 

 

中学生の時に、初めて彼女をみたときは、大人っぽい子がいるなぁとだけ思った。

 

学校の近くに住んでいて、笑うとえくぼができて、あはははっていう大きな笑い声のする女の子だと知ったのはずっと後。

 

 

彼女が学校の人気者になったくらいのとき。

 

 

周りに人がたくさん集まって、「さあちゃん」「さあちゃん」と呼び止められて、彼女も嬉しそうに返事をしていた。

 

 

きっと女子からの嫉妬も同じぐらい注がれたであろう彼女の毎日は、キラキラしているように見えた。

 

 

 

 

かろうじて同じ高校に通えたはいいものの、彼女には話しかけることができないまま、やっぱり高校でも人気者になる彼女を遠くから見つめていた。

 

そんな彼女が、どこのどいつの影響かは知らないが、学校のヤンチャなグループと付き合うようになっていったのは、関係ない身とはいえ、とてもショックだった。

 

 

 

綺麗な髪は金色に変わり、眉毛も整えて、同じように身なりを派手にした連中と肩を並べて帰る彼女は、前よりもっともっと知らない人だった。

 

 

彼女の周りには確かに人がたくさん集まったが、それも変わった。

 

 

 

高校を卒業してから、彼女がどうなったのかは知らない。

きっと就職先も、進学先も決まってなかったはずだ。

地元に残るのかどうかも、わからない。

 

 

 

きっと彼女は知らないと思うけれど、こっちの世界では彼女はいつも毎日の中に存在し続けていた。

 

 

 

それから何年もたって、何年も何年もたって、あの頃のことも「そうだった?」と曖昧になるくらい年月を経た。

 

 

彼女のことは、思い出さなくなった。

 

 

 

 

久しぶりに地元に顔を出すことになった際、友人の指定してくれた居酒屋に向かうことになった。

 

 

綺麗な茶色い木枠に、すりガラスのはめこまれた引き戸。頭があたるかどうかくらいの長さの小さな暖簾。

 

 

中にはふくよかなおばさんがカウンターに座る自分と似たり寄ったりのおじさんに向かって笑いかけていた。

 

友人が気づいて手を振ってくれた。

 

 

おしぼりは、すぐにでてきた。

 

 

 

「ちょっとまってね〜、もう、うちはおしぼりは早いんだけど注文が遅いのよ、許してね」

 

と、そう言い、あはははっと笑った。

 

 

 

居酒屋「さあちゃん」

 

 

 

ディズニー好きじゃなければ女子じゃない

 

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わたしは以前Twitterでこんな発言をした。

 

わたしはディズニーが好きだ。

ポジティブで、明るくて、かわいいお姫様を見ると元気が出るし、物語も前向きでとてもいい。

 

 

でも、わたしはディズニーが"そこそこ好き"のレベルで、映画やそのシリーズを全て見ているわけではないし、好きだと言ったお姫様たちの名前を間違えずに言えるかというと、自信がない。

 

わたしの家にはディズニーの絵本がたくさんあった。

四角い、硬い表紙の、大きい絵本。

 

 

お母さんは毎日読み聞かせをしてくれた。

 

 

でも、もちろんディズニーだけじゃなくて、「のんたん」も「ぐりとぐら」も読んで聞かせてくれた。

 

(特に「のんたん」は、暗唱ができるくらい読み込んでいたのだった)

 

 

そんなふうにディズニーにも少しは触れて育ったわたしも、「あぁ!この世界にいきたい!この世界の中に飛び込みたい!」と切望していたのは、"クレヨンしんちゃん"だった。

 

 

 

クレヨンしんちゃんの映画は初期から見ているし、毎日のように学校にいく前にクレヨンしんちゃんを見ていた。

 

つまり、わたしにはディズニーよりクレヨンしんちゃんがはまったということ。

 

 

大人になるにつれて、女子は可愛らしいものにどんどん惹かれるようになるし、わたしも例に漏れずそうだった。

 

その中で、ディズニーもいいなぁと思ったり、リラッククマがいいなぁと思ったりした。

 

 

ただジブリでは断トツにもののけ姫が好きだった。

 

 

わたしの中の「好き」には、もちろんたくさんのものが散りばめられていてすべてのものはそこに収まっていた。

 

 

けれど、ある時こんなことを言われた。

 

 

 

「え!?女子ってみんなディズニー好きじゃん!興味ない人とかいるの!??」

 

 

 

好きじゃないわけじゃない。

ただ突出してそれが「大好きだ!」と言えないだけで、それよりも自分にハマっているものがあるだけのはなしだった。

 

 

そういう、統計的に見て、お前もそうじゃん?という言い回しは、「それじゃあわたしって、女子じゃないのか?」と考える材料になった。

 

 

モヤモヤとした日が続いた。

「一番好きだ」と嘘をついたこともあった。

 

 

でも、消化できなかった。

 

 

それでも人と関わり続ける中で、「それでいいじゃん!」と言ってくれる人がいた。

好きなものを、好きだと言って、何が悪いのか。

1番じゃないだけで、好きなものはたくさんあっていいじゃないか。

つまらないワードを貼り付けて否定することには、なんの意味もなかった。

 

 

 

わたしがそのたった一言の「いいじゃん!」に救われたように、わたしも同じようにモヤモヤとした気持ちを抱いているあの子に、「それでいいじゃん!」と伝えていきたい。

 

 

 

 

「それ、いいじゃん!」