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きみもリトルスター

星の数だけ吐き出したい気持ちがある @com_atcom

リリイ・シュシュのすべて

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人生は椅子取りゲームだと言い出したのは誰だろう。

 

人生という大きなくくりのなかでみたわたしたちは、そのスポットライトの当たる椅子を目指してぐるぐる互いを見ながら回り続けているんだろうか。

 

 

 

小中高大とどの年代が1番息苦しさを感じているんだろう。

繊細でいて敏感で、多感な「中学時代」だろうか。

 

 

部活を選び、席を選び、友人を選び、心の自由が少し増えると同時に、抑圧された学校生活。

 

 

仲良しグループで、毎週、1人ずつ無視されていく"ゲーム"がある。

 

「あいつうざくない?」

 

がゲームの始まりの合図だ。

 

メールも、挨拶もなくなり、トイレにも一緒にいかない。

 

そして対象者は「ああ、自分の番か」とおもう。

 

 

 

もうやーめた、と投げ出して、早々に抜け出せる椅子取りゲームとは違う、永遠に参加させられて誰か1人が取り残されるフルーツバスケットだ。

 

 

どうか、自分の頭についたフルーツの名前を言わないで、そう永遠と願うしかないのか。

 

 

 

例えば平日の昼間にコペンを道端に停めて、花壇に座って話をするあの夫婦になるまでに、あとどのくらい湖の水を飲み続けるのか。

 

 

残りの人生の、途方もない長さを思い知る。

 

 

 

わたしたちは傷つきやすい。

何十回と同じ人生を歩んだとしても、きっと同じように傷ついていく。

 

 

 

最低で、最悪で、

 

それでも景色は美しくて、そして毎日少しずつ歳をとっていく。

 

 

 

触れて欲しくない

 

触れたい

 

誰とも話したくない

 

話したい

 

 

 

わたしたちは傷つきやすい。

虫のなかのわたし

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仕事をしていた

 

目の前にあるガラス窓に、一匹の小さい虫がいた。

長く飛べるほどの羽をもっていないその虫は、一瞬、ひゅんと窓にぶつかってはまた落ちていた。

 

きっと、窓の向こうの景色は見えているのに、どうしていけないんだろうと不思議に思っていたはずだ。

 

 

何度も何度もトライしては、ぶつかって、下に転がるそいつを見ていた。

 

 

本当に残念なことだが、その窓はあかない。

 

 

わたしも開いたところを見たことがないのだから、奇跡でも起こらない限りその窓はあかないんだ。

 

 

もし可能性があるとすれば、窓の隣にある勝手口、そこを通るわたしたちの隙を狙って飛び出すか、部長の大雑把な性格で扉が開けっ放しになったときか、そのくらい。

 

 

窓から出るのはきっと外への最短ルートだ。

 

 

外の景色もずっと見えているんだから、ここをどうにかすればすぐ外に出られるんだ。

 

 

 

 

 

そうか、そういうことか。

 

 

 

 

 

 

今いる現実や立ち位置からみる"なりたいわたし"を想像するのも、こういう人になりたいというお手本のような存在も、思いめぐらせ目の当たりにするのは容易い。

 

 

そこに開かない窓が一枚だけ、遮っていたとしてもだ。

 

 

現実と理想はとても近い。

 

 

ただ、近いだけで届かない。

 

 

 

でも、もし、その虫に隣の勝手口をみる余裕があったら?

 

もし、お、あいつはマイペースなやつだから扉を開けっ放しにすることが多いな、と分析できたら?

 

飛べない羽を最大限、最もいいタイミングで飛ばせる準備をしたら?

 

 

 

 

憧れのあの人と同じような道を進めば同じ結果になるとは限らない。

 

 

例えば窓を奇跡的に誰かが開けてくれる瞬間に飛び出せたら

 

例えばこちらの大掃除の日に偶然飛べたなら

 

 

それはかなり幸福なことで、実はそれを目標にしてしまっているのかもしれない

 

 

 

時間のスピードは同じではなくて

決めるのは自分

 

早いか遅いかを決めるのは自分

 

 

いつも最善の準備ができているわたしでいたい

 

 

 

 

【本の話】気分上々

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森絵都さん 気分上々

 

まず、森絵都、というお名前が可愛くて仕方ない。

ひびきがとても軽やかで、漢字も鮮やかに彩られている。

 

 

わたしも名前を森絵都と名付けたいくらい。

 

 

 

本は短編集で、今まで森絵都さんが色々なところで発表してきた作品をぎゅぎゅっとまとめたもの。

 

1つ1つの作品に魅力があって、ユーモアがあって、読み応えバツグン。

 

 

 

個人的には「17レボリューション」が気に入っていて、彼との恋模様も好きだけれど、彼女の自分革命のために友人を変える、なんてあたりが若者らしくあり重なるものがありグッときてしまった。

 

 

他の作品にもそれぞれオススメしたいポイントがたくさんあるのだけれど、

 

 

 

「言葉ってのはチャリのチェーンと一緒で、使ってないとさびついてくるもんだ。」

 

 

というセリフなんかは、ノートに書き写したりなんかしてみた。

 

 

 

 

森絵都さんはなんとなく、純朴な少女のようなイメージを持っていたけれど、その少女が走り出していくような、心地いい疾走感のイメージも同時に抱いた昼下がりのはなし。

 

 

 

根深い「笑いグセ」

 

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会話の途中で笑っちゃうひと

 

「これさ、ンフフ、やっといて?ハハ」

 

 

語尾が笑いと混じるひと

 

「知らないですヨハハハハ」

 

 

 

面白くもないのに笑いを入れてしまう、いわゆる「笑いグセ」を持ってる人っている。

 

 

 

わたしはこういうひと、結構闇が深いのかも、と勝手に思ったりする。

 

 

細かいところに気がつくし、整理整頓できるし、滅多に怒らないけど、何かのスイッチが入った瞬間、激昂してしまうような

 

 

そんな危うさを勝手に感じ取るわけで。

 

 

 

 

 

きっとそういう人に出会ったとき、「あれ?わたしの話なんかおかしかった?」とか、「笑われてるみたいで気分悪い」とおもう人は必ずいるはず。

 

 

 

憶測でしか言えないけれど、彼や彼女は"沈黙"が怖いのかもしれない。

発言の後、シーンとなるのが嫌なのかもしれない。

人の目を、気にしすぎているからかもしれない。

 

 

どうしたらうまく付き合えるか、その解決方法はその人によって違うのだから明確には言えないけれど、

 

 

きちんと話を聞いて、

「わかったありがとう」

「それじゃね」

 

と、きちんと話を終わらせること。

 

 

 

わたしはそんな風にするのがいいのかなぁ、と思います。

 

コロッケはみっつ

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基本的に昼の弁当に対する熱が全くなく

こだわりもない。

 

食べているときに電話が鳴れば取らなければいけないし、昼の休憩はご飯よりも休憩したい欲が強いからだ。

 

 

 

そういう人間が日曜のスーパーに行くとどうなるか。

 

 

 

今日はコロッケが1つ50円だった。

 

 

牛肉コロッケ

かぼちゃコロッケ

カレーコロッケ

 

 

 

迷わず3つ取った。

 

 

周りの目は気にならなかった。

 

 

コロッケが特別食べたかったわけではない。

ただ、「弁当のおかずにしよう」と思った。 

 

 

 

 

帰って、ご飯を詰めた弁当が4つできた。

 

ここまでくれば白状するが、わたしは弁当が毎日一緒でもなんともない。

数日前の米だからどうだとおもうこともない。

 

きっと自分1人だからだろう。

 

 

 

話を戻すとその弁当に、コロッケを半分ずつ入れた。

 

50円にしては大きいそれを、4つに切り、内2つを弁当に詰めた。

 

 

コロッケは4つの弁当に詰まっただけでなく、1つ余ってしまった。

 

 

2つ買えばよかった。

 

 

もう少しコメを多く炊けばよかった。

 

 

 

 

そろそろビタミンとカルシウム不足でどうにかなりそうだ。

 

 

不安を抱えながら明日から4日間は、確実にコロッケを食べていく。

 

 

 

そんなはなし。

傘はささない

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車の中に、傘は3本入っている。

 

大人用の傘と

折り畳み傘と

小学校から使っている傘

 

 

傘を入れている理由は、突然の雨に困るから。

いざというときに、すぐ出せるように。

 

 

 

つまらない話だが小学生用の傘は、職場の行き帰りに使っている。

駐車場から事務所に向かうまで50メートルほど。

傘立てといったものも特にないので、場所をとらずに手軽に使えるといったらこの傘しかなかった。

案外ひとが1人入るには十分なスペースがあるし、何より強度が抜群だった。

 

 

 

 

先日、テレビ番組を見ていると、「外国人は傘をささない」という興味のわく内容の話があった。

 

インタビューを受けていたアメリカの男性は「傘を持つのは面倒だ」と言っていた。

 

イギリスの男性は「少しの雨なら濡れても対して気にしない」と言った。

 

オーストラリアの女性は「逆に雨に濡れて服がきれいになるわよ」と笑った。

 

 

そうか、海外の人は傘をささないんだ。

 

 

 

 

それでは、何故わたしは傘をさすんだろう?

 

 

 

 

何かの本かテレビで、こんな諸説を聞いたことがある。

 

 

昔、駆け込み寺のようなところで生活をしていた人々は、時期が来るとその寺を出ていかなければならなかった。

着の身着のまま来た彼らは、当然荷物もなにもなく、出て行くときもそのままだった。

 

 

雨の降りしきる中、出て行く男性の姿を見かねた寺の僧侶は、彼に1本の傘を差し出した。

 

 

何もないけれど、せめてこの雨風を、少しでもしのげますように。

 

 

 

 

そこから、日本人は雨風をしのぐ、傘を必要としたと言っていた。

 

もちろん嘘かもしれない。

 

海外の湿度と日本の湿度が違うとか、ある国ではレインコートが主流だからとか、そんな説もたくさん見た。

 

 

ただ、わたしはこの説がとても気に入っている。

 

 

 

少しの雨ならたまには外国の人のように軽やかに歩いてみたり、

 

昔の人を偲びながら"傘"という慈しみをひろげてみたり、

 

 

 

 

雨を大切な1日として過ごしてみたいと、そう思う。

 

「気がついたらここまできていた」とは

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「がむしゃらに働いて、気づいたら周りには仲間がいた」

 

 

「 とにかく必死に頑張って、気づいたらこんな役職にまでなっていた」

 

 

「あっという間に時間が過ぎて、気がついたらプロと呼ばれるまでになった」

 

 

 

気づいたらここまできていた、という話し方は、実際わたしたちをモヤモヤさせる。

 

 

詳しく話していたらキリがないし、紆余曲折、波乱万丈、言い表せない時間があったのかもしれない。

言葉で伝えるにはあまりに長い。

 

 

 

でも聞きたいのはそういう概要なんかじゃなくて、その、"過程"なんだと思う。

 

 

 

気づいたら?

 

ほんとうに?

 

ほんとうにそこにたどり着くまで何も考えなかったの?

 

手っ取り早く説明しただけ?

 

 

 

 

生きている日々はそんなにも気づかないのか。

 

時間はほんとうに進むのが早いのか。

 

 

 

憧れのヒト、こうなりたいなぁと、この人はどんな人生を送ってきたんだろう、と興味を持つなんて、そういう現象、羨ましい。

 

 

 

 

「気づいたらここまできていた」という表現は使い勝手がいい。

誰のせいでもなく、自分もよくわからないと謙遜しながらでも歩いてきた道の長さを感じさせる。

魔法の言葉だ。

 

 

 

 

だから、わたしなんかが言うことではないかもしれないけれど、どうか使い勝手の悪い言葉で、どうぞよろしくお願いいたします。